おはようございます。
お正月休みも終わり
普通の生活に戻ってきたでしょうか。
年末の忘年会から始まって
お正月のおせち料理やお鍋など
けっこう贅沢なご飯を堪能してしまいました。
その疲れた胃を休めるために
昨日は七草粥を食べた人も多いんじゃないですか。
そういった季節の行事を自宅でできる
本当に贅沢なことだと思います。
子どものころのお正月の思い出は
今のように贅沢な材料は使っていないけど
ちゃんと作ってくれたお節料理に白みそのお雑煮。
それを家族みんなで食べていたことを思い出します。
少し前のさんまのホンマでっかで心理の植木先生が
「大勢で食卓を囲んだ時に食べたものは
おいしかったという記憶に残りやすい。」
と言っていました。
そんなに贅沢なものを食べていなくても
自分の記憶にしっかり残っているのは
みんなで食卓を囲んでいたから・・・というのが理由のようです。
子どものころはほとんど食べることができず
(食べることが苦手でのどを食べ物が通過することができなかったんですよ。)
ガリガリに痩せこけた子供でした。
(今じゃしっかりと栄養が身について
どっしりとした体格になりましたが・・・。)
それでも折々の食べ物を思い出せるのですから
幸せな子供時代を送ってきたのだと思います。
ところが、この現代の日本において
十分に食べることができない子どもたちがいます。
前回の調査で子供の貧困率が少し改善したように見えましたが
それでも7人に1人の割合で貧困家庭の子どもがいます。
ただ、これは収入だけで貧困かどうかを判断したもので
実際にご飯が食べられない子とは一致していない可能性があります。
というのも、十分に生活できるだけの収入があっても
子どもに食べさせない家庭もあり
収入だけで測れないんです。
「子どもにまともな食事をさせるのは親の務め。」
まさに正論なんです。
ほんとはそうだと私も思います。
でも、出来ない人もいるんです。
しない人もいるんです。
そんな親のところに産まれた子に
何か落ち度があったのでしょうか?
ないですよね。
子どもには何の罪もないんです。
給食だけが頼りの子もいます。
そんな子のために「子ども食堂をやりましょう!」
と言う人もいます。
それも一つの方法です。
「フードバンクを充実させて子供たちに届けましょう!」
と言う人もいます。
どれもこれもいいことだと思いますが
それを行うには人手と時間とお金と場所と
いろんなものが必要になってきます。
また、一か所だけで行っていても届きません。
子どもの足で歩いていける距離に
さまざまな支援がないと届かないんです。
ボランティアや福祉に依存させるのは本意ではありません。
でも、自立の途中で少しだけ助けないといけないときもあります。
昨年は香川から東京に引っ越した女の子が
親に虐待されて亡くなるという悲しいニュースがありました。
今年からは
そんな悲しいニュースが流れてこない社会を
みんなで作っていきませんか?
それぞれが、出来る形で少しずつ。
無理せず、背伸びせず、ちょっとだけ。
そんな形ができればいいなとひそかに思っています。
皆さんはどう思いますか?
では、まだまだ仕事モードに戻ってませんが
今日も前向きに頑張りましょう!